鶏CIA活動報告

鶏CIA活動で滋賀・高島とんちゃんを訪ねました!(27.1.27)

27年1月27日(火)に、各地のおいしい鶏ちゃんを訪ね、歴史を調査し、楽しむ「鶏CIA」活動の一環として、岐阜県を出て、お隣滋賀県・高島市の「高島とんちゃん」を訪ねました。

高島とんちゃんは、「とんちゃん」の名前がありますが、タレで味付けをした鶏肉を焼いて食べるもので、基本は鶏ちゃんと同じです。こうした興味深い情報を得た私たちは、これは直接話を聞いて、食べてみなければと、高島市に向かいました。

最初にお邪魔したのは、高島市の安曇川にある鶏肉専門の販売店「鳥中」さん。三代目兄弟の提中卓郎さん、卓真さんにお話を伺いました。

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鳥中さんは1963年に生の鶏肉を販売する精肉店として創業し、66年に味付けかしわの販売を始めます。当時、在日朝鮮人の方が伝えた焼肉が広がる中、より日本人に合う身近な味付けのものをつくろうと考えた初代夫婦が、赤味噌で味付けをした鶏肉の販売を始められたのだそうです。

そして、67年に焼き肉店「お多福」を開業。大変お店は繁盛し、そのうちに、建設関係の常連客が味付けかしわを「とんちゃん」の愛称で呼び始めるようになりました。同じ頃、高島市内で味付けかしわを販売するお店が増え、高島では「味付けかしわ=とんちゃん」になっていったということでした。

鳥中さんは、その後、焼き肉店から量り売り専門の鶏肉店に形態を変えられましたが、当時と変わらぬ味付けでとんちゃんの販売をされています。

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とんちゃんは高島全体で知られていますが、全地域一律というわけでもないとのことで、北部エリアは醤油味、南部エリアは味噌味という特徴があるとのことでした。また、今では高島全体で知られているとんちゃんですが、高島名物の色彩が濃く、滋賀県でも他の地域ではあまり見られないとのこと。こうした点も、味噌と醤油、塩味などの違いがあること、下呂、郡上周辺に集中していることを特徴とする鶏ちゃんとよく似ています。

鳥中さんでは、とんちゃんの試食をさせていただきました。味噌ダレでしっかりと味付けをされたマイルドな鶏肉は、焼くと香ばしく、とてもおいしくいただきました。

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鳥中さんを後にした私たちは、続いて、北部エリアのとんちゃんを訪ねて移動開始。途中、「道の駅藤樹の里あどがわ」に立ち寄ったところ、ここでもとんちゃんがレストランのメニューや持ち帰り商品として販売されており、その広がりを感じました。

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今回の訪問を通じ、鶏ちゃんとの共通点を多く感じました。廃鶏の有効活用や、精肉店での味付け肉のバリエーションとしてなど、鶏ちゃんも様々な成り立ちがあるわけですが、その鶏ちゃんと高島とんちゃんが、ほぼ同じ昭和30年代に、全く異なる地域で同じようにできあがってきたことに大変親近感を覚えました。

鶏ちゃん合衆国は、信州・山賊焼や岐阜県内の神岡・みたけとんちゃんとの交流を進めていますが、高島とんちゃんとも交流を深めていきたいと思います。

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郡上での鶏ちゃん文化調査(鶏CIA)活動を行いました!(26.2.24)

26年2月24日に、郡上方面の2回目となる鶏ちゃん文化調査活動-鶏CIA活動を行いました。今回は、朝日新聞の記者さんの取材に合わせて行ったものです。日下部副大統領、都竹国務長官、上村企画広報長官が参加しました。

最初の訪問は、郡上市大和町にある「佐古尾商店」さん。昭和30年代の半ばに生まれたこのお店の屋号は「五石」といい、先代が「てーま」と地域の方から呼ばれていたことから、「てーま」の通称で呼ばれています。このお店は味付けを朝鮮の人たちに教わったということで、今回は朝鮮の食文化と鶏ちゃんのつながりを探るべくおじゃましたというわけです。

このお店には、「鶏ちゃん」という名称はのれん以外は一切なく、看板にも「ホルモン焼」としか書かれていないのですが、メニューは鶏ちゃん1種類でそれ以外はありません。なぜホルモンが鶏ちゃんなのか、ここに郡上の食文化のおもしろさがあります。

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昨年秋の郡上での調査活動でもお話をお聞きした、鶏ちゃん合衆国の閣僚州である「牧歌の里」のレストランチーフで、白鳥町で戦後から長く肉屋を営んでいた鷲見計憲さんによれば、郡上のホルモン文化史は次のような流れになっています。

郡上では「鶏ちゃん」の名称が出てくるのは昭和50年代で、それまでは「鳥ホルモン」と呼ばれており、今でも鳥ホルモンの名が使われています。これは同じ鶏ちゃん文化のある下呂地域にはないことです。

この食文化は、昭和30年代の最初に、郡上に住んでいた、また働きに来ていた朝鮮の方々が、牛のモツを食べる文化を持ち込んだところから始まります。当時、一頭買いで牛を販売していた郡上のお肉屋さんは使い道のない内臓肉は捨てるだけであったのですが、これを機に内臓肉が流通に乗り始め、「ホルモン」と呼ばれるようになります。

ホルモン料理は、味噌やニンニクで味付けした内臓肉を焼いて食べるという料理として広まっていきますが、昭和30年代半ばになると、ここで内臓肉だけではなく、鶏肉が入ってきます。ブロイラーの大量生産が始まった時期であることを考えると、価格が下がり、量も豊富になったことで、鶏肉がホルモン料理の中で使われるようになったものと思われます。そして、これが「鳥ホルモン」と呼ばれるようになっていくわけです。五石の鶏ちゃんは、この頃の鳥ホルモン文化がそのままの形で残っている貴重なお店と言えます。

その後、昭和50年代になって、内臓肉を焼いて食べる料理が「とんちゃん」として全国的に広がるようになったころから、郡上にも関市方面から「とんちゃん」の名前が入ってくるようになり、「とん=豚」の連想で、「鶏=けい」をもじって「けいちゃん」と呼ばれるようになっていったとのことです。

ちなみに、下呂では、既に昭和30年代に「とんちゃん」の名前の内臓肉料理が人気になっていて、同じように「とんちゃん」をもじって「けいちゃん」と呼ぶようになったという証言があります(下呂市馬瀬の「うめもと屋」)。

鶏ちゃん自体はもともとタマゴを生まなくなったニワトリを食べる家庭料理から始まっていますが、それがそのまま市場化、商品化されたわけではないところが面白いところです。

さて、五石さんの鶏ちゃんは、ニンニクをきかせた赤味噌ダレで味付けされたむね肉や皮なども入った鶏肉を、大量のキャベツと一緒に焼くというシンプルなスタイルで大変香ばしくておいしく、すばらしい味でした。

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五石さんだけでなく、郡上では鶏ちゃんが商品化され始めた頃、いわゆる「郡上味噌」は使われておらず、市販の赤味噌などを使っていたところが多く、今でもその名残があります。郡上味噌は、今でこそ鶏ちゃん商品に使われますが、昭和30年代は家庭で作られるお味噌であり、その味が商品化されるのは、少し後のことで、当時のホルモンは入手しやすかった市販の味噌を使ったのだそうです。

五石さんのあと、我々は牧歌の里で鷲見さんにお話をうかがった後、高鷲町で昭和30年代から「若鶏の味付け」として鶏ちゃんを販売している食料品店「森美屋商店」さんと、白鳥町のお肉屋さんで、いまも「若鳥ホルモン」として鶏ちゃんを販売している「フクハチ食肉店」を訪問してお話をうかがいました。

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また、お肉屋さんで鶏ちゃんを作ってもらったり、家庭で鶏ちゃんを作る文化を支えている鶏肉専門店である白鳥町の「いなば鶏肉店」さん、八幡町の「鳥信商店」さんにもおじゃましました。こうした家庭での鶏ちゃん文化は、下呂よりも郡上の方がはるかに発達しています。このあたりについては、改めてホームページでレポートしたいと思います。

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なお、当日の取材を踏まえた記事が3月1日に朝日新聞岐阜県版に掲載されました。

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各地の鶏ちゃんを調査する「鶏CIA」・第2回活動報告(24.9.27)

「鶏ちゃん合衆国」の活動の一つに、各地の鶏ちゃんを食べられるお店などを訪問調査する「鶏CIA」活動があります。要は自分たちで美味しい鶏ちゃんのお店を食べ歩こうということなのですが、第1回は8月31日に雑誌の取材への同行を兼ねて東白川村「白草」へ行きました。それに続き、9月13日(木)には、メーテレ(名古屋テレビ)のロケ同行を兼ね、鶏CIA長官の山本慎一郎さん(山本佐太郎商店代表)を隊長に岐阜、関市、下呂を廻りました。

参加したのは、山本長官のほか、長尾伴文大統領、都竹淳也国務長官、村山弘明消費者長官(村山チキンセンター州知事)、斎藤順子食務長官(杉の子州知事)、野口晃一郎報道長官の計6名。ちなみに、鶏CIAの隊員は、Gメンならぬ「鶏事」と称して活動しています。

この日は、メーテレの佐藤千晶アナウンサーの体当たり取材で新たな鶏ちゃんの世界が浮かび上がりました。なお、当日の模様は、9月17日(月)のメーテレのニュース番組「UP!」(18:30~)で放映されました。

以下、レポートです。(文:長尾大統領、都竹国務長官)

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この日の朝、皆が最初に集合したのは岐阜市殿町の鶏ちゃん合衆国ホワイトハウス。このホワイトハウスは交流長官の酒井稔さん(一級建築士)が運営する殿町カフェである。佐藤千晶アナウンサーと長尾大統領が「鶏ちゃんとは」「鶏ちゃん合衆国とは」やこれからの活動を語り合った。

それから出発、まず着いたのが関市の麺屋白神。この店は鶏ちゃん合衆国鶏済開発長官である石神康睦さんが経営する。石神さんは東海麺友会との鶏ちゃんコラボラーメンフェア(9/4~9/30)を企画されたほか、鶏ちゃん焼きラーメン、鶏ちゃん丼をメニューに入れるなど精力的に鶏ちゃんメニューを創り上げ鶏ちゃんを普及している。最近、麺屋白神で食事をしたお客様からは「本場の鶏ちゃんを食べるにはどこへ行けばいいですか」と尋ねる現象が起きているとのことだが、これこそ鶏ちゃん普及の基本スタイルであると感じる。

白神が創作した「鶏ちゃん焼きラーメン」は鶏ちゃん+焼き+ラーメンという少なくとも3工程が合体されており、特に焼きでは麺をフライパンで焼く作業が入るため出来上がりまでの時間が少し長い。鶏ちゃんは辛さと濃さが特徴の味噌味の食感でそれは本格的な鶏ちゃんだ。焼きラーメンの麺は太目の縮れ麺でほとんどスープがないが、“まぜそば”とは違う。温泉卵、サニーレタス、刻み海苔が乗せられ、別皿の刻みニンニクをふりかける。

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下呂に入った。鶏CIA隊が向かったのは舞台峠の麓にある「まるはち食堂」。

まるはち食堂と言えば鶏ちゃん食堂の元祖と言えるほどの存在で、創業は今から52年前の1960年(昭和35年)と言われる。2代目が昭和50年に現在の位置で開業し、現在は3代目に引き継がれる。まさしく鶏ちゃんの老舗中の老舗である。

<箸を持ったら離さない><紙を破らない><火の調節を常にする><紙を破らないようにとにかくよく混ぜる>と食す時の心得が書かれる。

ジンギスカン鍋にこんもり盛られた鶏ちゃんはしょうゆベースでニンニクが利いてまろやかでこってり感もあり、キャベツが甘い。この濃密なうまさは圧倒的な力で私たちに迫ってくる。さすがに伝統の味だ。

下呂地区の人は鶏ちゃんと言えばまるはちやさ、、、、」と誰もが口に出す。この日も近所から昼食に来たという男性がいた。普段の暮らしの中に鶏ちゃんが浸透している。まさしく文化である。

最後に、2代目の伊藤こうさん、3代目の伊藤みどりさんの記念写真。長年、鶏ちゃんを提供し続けてこられた誇りと自信に満ちた表情が印象的であった。

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次に向かったのは清流馬瀬川のほとりにたたずむ「うめもと食堂」。

カセットコンロに深みのある鍋が乗っている。グツリ煮えて甘い香りが漂う、登場したのは名物<鍋煮込みケイちゃん>だ。モモ、ムネ、皮が入り、柔らかくも噛み応えがある。キャベツとタマネギが甘味を増しているようだ。一般に鶏ちゃんは焼いて食べるとなっているため誰もがウーンとうなづいてしまう。かなりニンニクが入っているが口に臭わない。残り汁にはうどんを入れても味わえる。

うめもと食堂が馬瀬の地に誕生し、かれこれ57年になるということは1955年(昭和30)の創業になる。驚くことは創業以来、ずっと今の煮込み鶏ちゃんスタイルでこの味を守り続けていることだ。

うめもと食堂は馬瀬村を舞台に馬瀬村人による馬瀬村人のための「馬瀬鶏ちゃん」という<時代の鶏ちゃん>を誕生させた。馬瀬鶏ちゃんとは何を物語るのだろうか。

それは馬瀬の村では各家で飼われていた卵を産まなくなった廃鶏(はいけい)をつぶして食べてきたが、特に来客があった時はごちそうとして提供し、さらに村の寄合いなど集団になったときは豪華盛大に食べてきた。

村の寄合から食堂をやろうという話が飛び出し、うめもとの御主人のところに村人数人が集まり今食べているこの鶏料理を提供しようということになった。それぞれが思い思いに提供方法と味の試行錯誤を繰り返し、梅本食堂が辿り着いたのが現在の煮込み鶏ちゃんということだ。ちなみに、当時、「焼く」という手法をとったのが、同じく馬瀬にある村山チキンセンターのおじいさん。これが今の「カネトのケーちゃん」につながっている。

こうした中、料理名をどうするかとなったが、お客に提供するとなれば<廃鶏・はいけい>は使用したくなかった。何かいいネーミングはないかと考えている時、村の寄合には韓国系の人もいてその人の発想も混じりケイの呼び方を活かし「鶏ちゃん」にしようということになった。鶏ちゃんの「ちゃん」が「醤(じゃん)」に由来するというのはこのあたりにあるのかもしれない。

うめもと食堂は今でも民宿「梅本屋」を併設しているように、常に村の中でコミュニティーの核的存在であったことが、馬瀬鶏ちゃんの世界を独自に創り上げたと言ってもいいだろう。

この煮込み鶏ちゃんを食べて、鶏CIAの「鶏事」一同は、この煮込み鶏ちゃんの味が村山チキンセンターの鶏ちゃんによく似ていることに気づいた。煮込みと焼く鶏ちゃんの違いがあるのに共通しているのは、ベースとなっている馬瀬の地味噌の味である。馬瀬というコミュニティが生んだ鶏ちゃん。そして、DNAのように共通する地味噌の風味。まさしく鶏ちゃんが郷土料理たる所以である。

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鶏CIAの一行は馬瀬川の流れを眺めながら下呂へ戻り舞台峠方面の乗政という集落へ入った。鶏ちゃん合衆国は営業用店舗を基本に繋がっているが、一般家庭の手作り鶏ちゃんはまだ触れたことがない。

現在、一般家庭で鶏ちゃんのタレを作り、それこそ家庭の鶏ちゃんを日常食べている家が最も多いのが下呂市の舞台峠周辺である。そこで乗政地区と早川さんの個人宅へおじゃましてその家に伝わる秘伝のタレが入ったビンを奥様に見せていただいた。

ニンニクと醬油がベースというタレは、早川家に伝わるものだという。日常的に、このタレを使って鶏ちゃんをつくり、食べるという話に、地域の食文化として生まれ育ってきた鶏ちゃんの歴史を見る思いがした。

 

麺屋 白神(関市巾2丁目144-6 はばコーポ)

℡0575-25-0656  営業時間11:00~14:00 18:00~21:00

定休日:毎週月曜日・第3火曜日

まるはち食堂(下呂市御厩野139-1)

℡0576-26-2077 営業時間11:00~17:00

定休日:毎週火曜日

うめもと食堂(下呂市馬瀬中切1676-2)

℡0576-47-2504  営業時間9:00~19:00

定休日:不定休

【鶏ちゃんのお店情報】東白川・白草のけいちゃん(24.9.4)

白川街道の東白川村は神秘的な村である。村民の母なる川と親しまれる白川とその支流に沿って集落が点在し、人口は約2500人。苗木藩の廃仏毀釈運動により日本で唯一、お寺のない自治体でもある。

白川街道はツチノコ伝説をあちらこちらで耳にするが、鶏ちゃん伝説に名を連ねるのではないかと思えるぐらい昭和の香りを漂わせているのが東白川村にある一軒の焼肉屋「白草」だ。

8月31日(金)の午後3時、鶏ちゃん合衆国鶏CIA長官の山本慎一郎さん(山本佐太郎商店代表)を隊長に交流長官酒井稔さん(一級建築士)、消費者長官村山弘明さん(村山チキンセンター社長)、国務長官都竹淳也さん、大統領長尾伴文とでその白草に入った。

店内はテーブルの間に立てかけられた仕切りカーテンが妙に目に付き、赤茶けたカウンターの向こう壁には「鶏ちゃん合衆国認定書 白草殿~鶏ちゃん合衆国の州として認定する~平成24年7月20日 鶏ちゃん合衆国大統領 長尾伴文」と記された認定書が格調高く額に入れて飾ってある。木の村らしくヒノキに墨字でお品書きが作られている。畳座敷の部屋からは白川の流れが眺められちょうどこの季節、鮎釣り人の姿が点々と続く。

今なお現役で店を切り盛りする大女将の安江冨貴子さん(80歳)は「とにかく食べて行くために何かしなければと思い立ち昭和44年にこの焼肉屋を始めました。創業時から鶏ちゃんは看板商品で親鶏(ひね鶏)使っています」ときちんと背筋を伸ばし語られる。どうやら昭和44年の創業時から今日まで東白川村の白川街道沿いには鶏ちゃんが食べれる店は出現しなかったようだ。

調理を担当する中島豊彦さん(56歳)は「親鶏は長く飼われることもあり皮や筋はとても強く硬くなります。もちろん肉も同様で、良く言えば肉はぐっと引き締まり独特の歯ごたえと香ばしさがありますが、悪く言えばとにかく硬い肉です。しかし、けいちゃんには親鶏を使うことが白草の特徴であり白草の「味」なのです」と強調される。

さらに中島さんは<筋引きひね鶏>への思いが強い。それは親鶏を使うとなれば、より良い食感にするために皮や筋を取り除き肉だけにしなければならずその作業が<筋引き>で、細かく手間がかかり腰を痛めるそうだ。では手間がかかれば美味しくなるのかとなればそうだとは言えないようで、言えるとすれば珍しい味、つまり他所には無い味になるだろうということだ。

 

タレについては「ミックスした八百津の味噌に何種かの香味料を混ぜ合わせた秘伝の味付けですが、長く漬け込むことはせず注文をいただいてからサッとまぶし揉むような感じです」と大女将さんが説明する。

鶏ちゃんを焼く姿も白草は独特だ。あえて焦げ目を付かせる。黒光りの鉄板は平らである。タマネギ、キャベツ、モヤシの三つの野菜が細切りに添えられている。黒いタレの入った二つの小鉢が差し出される。一つはニンニク味、もう一つは生姜味。焼けた鶏ちゃんに味は付いているが、お好みでタレをつけて食べる下さいということだ。

 【白草】

岐阜県加茂郡東白川村神土424-3
TEL0574-78-2164

営業時間  午前11時~午後9時(8時入店まで)
定休日  水曜日

(文:長尾伴文大統領)

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